信仰の真理について

[信仰の真理と歴史的真理]

歴史的真理と先述の科学的真理は原理的に異なった性質を備えている。それは歴史的真理の発見には解釈する主体が実存的に関与しているが、科学的真理にはそれが不確定であるためである。信仰の真理においても歴史的真理は異なっている。それは、また、科学的真理と同様に、客観的方法による解明に於ける真理の流動性を含むからである。そして歴史的真理は、事実と考えうる客観的証拠・資料に基づく多面的な研究であり、信仰の詩的真理や神話的真理とは一線を画するものであるためである。さらに、信仰の真理の領域に歴史的妥当性を介入させることは、科学的真理を信仰の真理に持ち込むことと同様に避けなければならないのである。 そして、たとえ聖書の奇跡物語に信用すべき文献的証拠があることを信じないのだからキリスト教的信仰を持っていないのだと決め付けることや、歴史的妥当性が聖書物語にはないと信仰を否定することは往々にしてナンセンスである。それは、全ては歴史的真理の問題であって信仰の真理の問題ではない為である。このような歴史的真理を信仰的真理から排除した独立性は、究極的な関わりである信仰の理解の、最も重要な帰結である。歴史は歴史であり、信仰は信仰なのである。
[信仰の真理と哲学的真理]

まず初めに、哲学は存在と経験との普遍的範疇を見出そうとするものである。このことを踏まえた上で言えるのが、哲学的信仰は存在とその構造に関する真理であり、信仰の真理は究極的な関わりに関する真理である、ということである。
 そしてここで厄介なのが、哲学的真理は概念的に表現される究極的実存に関する真の概念であり、信仰の真理は象徴的に表現される究極的に関わるものに関する究極的な真の象徴であるという、ある種の一致点である。ではなぜ、究極 的なものを追う求める二つのものが、もう片方は概念を使い、もう片方のものが 象徴を使って表現するのか。それは、究極的なものに関する関係が両者ともに違うからである。それは哲学が究極的なものが発現する基本構造の客観的記述であり、信仰が究極的に関わるものの実存的表現であるからである。ここには両者の究極的なものに関する関係性の問題がある。関係性の違う両者であるが、哲学的な議論の奥にある無制約の経験(究極的なものに関する無制約的な情熱)は、それらの議論の中に潜む信仰の真理の源泉である。自然と人間的事物との哲学的洞見は、信仰と概念的労作との統一である。存在の根底や構造を問うという点 においては、科学の中にも哲学的要素は常に含まれており、哲学が信仰とある点での共通性がある以上、科学の中にも信仰が含まれているのである。
 そしてまた厄介なのが、哲学的真理と信仰の真理は全くの別次元のものであるが、実際にはどの哲学にも両者は統一されているという点である(哲学的信仰)。哲学的真理の中に信仰の真理があり、信仰の真理の中に哲学的真理があるのだ。哲学的概念は神話的根源を持っており、神話的象徴は概念的要素を含んでいる。アダムの堕落などからもわかるように、どの宗教的象徴の中にも哲学的概 念の形成への可能性が含まれている。しかしながらここで強調しなければならないのが、信仰は哲学的思惟の運動を決定せず、哲学は何が究極的な関わりかを決定しないという点である。双方の究極的なものは、関係性は似ていてもあくまで、違う次元にあり、哲学的真理と信仰の真理は別のものである。 [信仰の真理とその基準] 重ねて言うが、究極的なものへの究極的な真っ当な信仰こそが真の信仰である。 信仰の真理について語ることができるのは、究極的に関わっている信仰の本質 そのものだけである。科学でも、歴史でも、哲学でもなく、信仰の本質のみである。信仰の純粋な諸象徴と諸類型には全ての信仰の真理が含まれていることを理解することで、宗教史を容認することができ、宗教史が審判される究極的な基 準示すことができるのだ。信仰は、それが究極的な関わりを適切に表現している (象徴)かぎりにおいて、真理である。信仰の真理の基準は、その象徴が生きているかどうかにある。しかしながらそれが死んでしまったものでも、いつ復活するかどうかは判断できないのでそれは配慮しなくてはならない。
また、信仰の象徴の真理性の基準は、その象徴が偶像になっていないかどうかと言う点にある。どの信仰類型にも自己の具体的象徴を絶対的妥当性に引き上 げようとする傾向がある。それゆえ、信仰の真理の決定基準は、それが自己否定 の要素を持っているかどうかという点にあるのである。
出典
信仰の本質と動態 テイリッヒ著 谷口美知雄約 1961年新教出版