理性と信仰について

信仰は理性が前提となっている。理性こそが人間を人間たらしめるものであり、信仰は理性の充実である。それゆえ両者は相互内在的であり、本質的矛盾はない。もし仮に、信仰が理性と対立するものであるのならば、信仰活動は人間を 非人間化してしまうものとなる。さらに云えば、人間が理性を脱自的に自己を超 克した先にあるのが信仰である。そして理性を超える為には、自らの有限性や自 己の可能性の無限性の意識が必要であり、この超克による意識は極的な関わり (信仰)として現れるのである。然しながら、この超克を行う為には、無限的な ものに捕らえられることや聖なるものの現前を経験する必要がある。脱自においてこのような経験がなければ理性は破壊される。
しかし、残念なことに現実には乱用された理性と迷信化した信仰の衝突が避けられない状態となっている。これは人間が理性と信仰をあるべき状態においていないからである。そこで人間は信仰と理性の相互関係の疎外を克服し、双方の本 質の確立がなされなければならないのである。これは啓示経験である。然しながらここでの啓示は一般的に考えられうるものとは違う。啓示とは、究極的な関 わりが精神を動かし、それによって共同体が生み出され、その共同体において人間の究極的な関わりが行動的、象徴的、思恣的象徴となって、表現を遂げること の経験である。このような経験において理性と信仰の衝突はあり得ない。なぜなら、この啓示によって変化させられるのは、合理的存在としての人間構造である からである。信仰史は間違った信仰体系や啓示による理性の堕落や湾曲とそれ に伴う衝突から生じる啓示の要求の歴史であり、つまり信仰史は信仰の腐敗の歴史なのである。このような闘争、ひいては信仰と理性の衝突を終わらすには、 終極的な啓示は必要となるのである。
[信仰の真理と科学的真理]

信仰の真理は認識理性の諸関係が真理とするものと異なっている。これは実存を履き違えたり、表現を誤ったりする為に発生する誤諺であるが、実際としてこ れらの誤りを判別することはその性質が相互依存的である為に難解である。い ずれにせよ信仰の真理と他の標準による真理の関係を問う必要がある。
まず最初に自然科学の真理性は暫定的なものである。然しながらそれを良いことに神学者はこれらの真理性の脆弱性を指摘してはならない。なぜなら、神学 における真理と科学における真理は異なる次元にあるものであるからである。 それゆえ本来ならばいかなる衝突が発生するはずがないのであるが、どちらかがどちらかに介入したり、基準を押し付けたりする為に問題が発生するのであ る。また、間違った表現形式を持つ科学はそれ自体が盲目的な信仰であり、先述 された無神論者の例に然るのである。一方でこれは科学的観点の神学への 押し付け(進化論問題)のような形式だけでなく神学観点の科学への押し付けも 問題となっている。神学者は科学的発見を利用して、信仰の真理を証明しようと してはならないのである。これは先述したように双方の真理の次元が違うため に、一方の基準を押し付けてはならないからである。

出典

1961年 信仰の本質と動態 ティリッヒ著谷口美智雄訳 新教出版