ドイツ歌曲をもとに書いた詩の一部

風の音に耳を澄ませば、愛のささやきが聞こえてくる。素肌に上質なシルクのローブをまとったかのように、なめらかで心地よい春の風は、街のいたるところで恋人たちを祝福し、彼らの口づけを爽やかにする。ああ、風よ、風よ。あの娘のうるわしい黒髪をゆらすざわめきの中でわたしは、実らぬ恋を嘆き悲しまなければならないのか!ああ、風よ、風よ。もうこれ以上、わたしを苦しめないでくれ!お前がこの娘の黒髪を揺らしてしまったがために、わたしはあの娘に恋をしてしまったのだから!

春ごろに書いた詩の一部

【ある春の夜に】

 

夜の暗闇がごうごうと唸っている。

あまりにも多くを語りかける饒舌な春の月は、おだやかな水面に、その姿を投げ入れる…

 

夜に沈んだ池と

遥か雲海のかなたから覗くおぼろ月

近くて遠い二人の会話は、夜が明けるまで続くのだろうか

 

大地の輝きと

かぐわしい春の陽気に

うるわしい樹々の木洩れ日に

 

季節はなにをささやくのだろう

通り過ぎていったあなたとの記憶も

そよ風がさらってしまうのだろうか

 

草原をかける時の駿馬は、あなたを乗せて、わたしのもとを去ってしまったというのに…

 

ああ、ただ色褪せぬ思い出の中で

あなたはわたしに、今も微笑む

信仰の真理について

[信仰の真理と歴史的真理]

歴史的真理と先述の科学的真理は原理的に異なった性質を備えている。それは歴史的真理の発見には解釈する主体が実存的に関与しているが、科学的真理にはそれが不確定であるためである。信仰の真理においても歴史的真理は異なっている。それは、また、科学的真理と同様に、客観的方法による解明に於ける真理の流動性を含むからである。そして歴史的真理は、事実と考えうる客観的証拠・資料に基づく多面的な研究であり、信仰の詩的真理や神話的真理とは一線を画するものであるためである。さらに、信仰の真理の領域に歴史的妥当性を介入させることは、科学的真理を信仰の真理に持ち込むことと同様に避けなければならないのである。 そして、たとえ聖書の奇跡物語に信用すべき文献的証拠があることを信じないのだからキリスト教的信仰を持っていないのだと決め付けることや、歴史的妥当性が聖書物語にはないと信仰を否定することは往々にしてナンセンスである。それは、全ては歴史的真理の問題であって信仰の真理の問題ではない為である。このような歴史的真理を信仰的真理から排除した独立性は、究極的な関わりである信仰の理解の、最も重要な帰結である。歴史は歴史であり、信仰は信仰なのである。
[信仰の真理と哲学的真理]

まず初めに、哲学は存在と経験との普遍的範疇を見出そうとするものである。このことを踏まえた上で言えるのが、哲学的信仰は存在とその構造に関する真理であり、信仰の真理は究極的な関わりに関する真理である、ということである。
 そしてここで厄介なのが、哲学的真理は概念的に表現される究極的実存に関する真の概念であり、信仰の真理は象徴的に表現される究極的に関わるものに関する究極的な真の象徴であるという、ある種の一致点である。ではなぜ、究極 的なものを追う求める二つのものが、もう片方は概念を使い、もう片方のものが 象徴を使って表現するのか。それは、究極的なものに関する関係が両者ともに違うからである。それは哲学が究極的なものが発現する基本構造の客観的記述であり、信仰が究極的に関わるものの実存的表現であるからである。ここには両者の究極的なものに関する関係性の問題がある。関係性の違う両者であるが、哲学的な議論の奥にある無制約の経験(究極的なものに関する無制約的な情熱)は、それらの議論の中に潜む信仰の真理の源泉である。自然と人間的事物との哲学的洞見は、信仰と概念的労作との統一である。存在の根底や構造を問うという点 においては、科学の中にも哲学的要素は常に含まれており、哲学が信仰とある点での共通性がある以上、科学の中にも信仰が含まれているのである。
 そしてまた厄介なのが、哲学的真理と信仰の真理は全くの別次元のものであるが、実際にはどの哲学にも両者は統一されているという点である(哲学的信仰)。哲学的真理の中に信仰の真理があり、信仰の真理の中に哲学的真理があるのだ。哲学的概念は神話的根源を持っており、神話的象徴は概念的要素を含んでいる。アダムの堕落などからもわかるように、どの宗教的象徴の中にも哲学的概 念の形成への可能性が含まれている。しかしながらここで強調しなければならないのが、信仰は哲学的思惟の運動を決定せず、哲学は何が究極的な関わりかを決定しないという点である。双方の究極的なものは、関係性は似ていてもあくまで、違う次元にあり、哲学的真理と信仰の真理は別のものである。 [信仰の真理とその基準] 重ねて言うが、究極的なものへの究極的な真っ当な信仰こそが真の信仰である。 信仰の真理について語ることができるのは、究極的に関わっている信仰の本質 そのものだけである。科学でも、歴史でも、哲学でもなく、信仰の本質のみである。信仰の純粋な諸象徴と諸類型には全ての信仰の真理が含まれていることを理解することで、宗教史を容認することができ、宗教史が審判される究極的な基 準示すことができるのだ。信仰は、それが究極的な関わりを適切に表現している (象徴)かぎりにおいて、真理である。信仰の真理の基準は、その象徴が生きているかどうかにある。しかしながらそれが死んでしまったものでも、いつ復活するかどうかは判断できないのでそれは配慮しなくてはならない。
また、信仰の象徴の真理性の基準は、その象徴が偶像になっていないかどうかと言う点にある。どの信仰類型にも自己の具体的象徴を絶対的妥当性に引き上 げようとする傾向がある。それゆえ、信仰の真理の決定基準は、それが自己否定 の要素を持っているかどうかという点にあるのである。
出典
信仰の本質と動態 テイリッヒ著 谷口美知雄約 1961年新教出版

理性と信仰について

信仰は理性が前提となっている。理性こそが人間を人間たらしめるものであり、信仰は理性の充実である。それゆえ両者は相互内在的であり、本質的矛盾はない。もし仮に、信仰が理性と対立するものであるのならば、信仰活動は人間を 非人間化してしまうものとなる。さらに云えば、人間が理性を脱自的に自己を超 克した先にあるのが信仰である。そして理性を超える為には、自らの有限性や自 己の可能性の無限性の意識が必要であり、この超克による意識は極的な関わり (信仰)として現れるのである。然しながら、この超克を行う為には、無限的な ものに捕らえられることや聖なるものの現前を経験する必要がある。脱自においてこのような経験がなければ理性は破壊される。
しかし、残念なことに現実には乱用された理性と迷信化した信仰の衝突が避けられない状態となっている。これは人間が理性と信仰をあるべき状態においていないからである。そこで人間は信仰と理性の相互関係の疎外を克服し、双方の本 質の確立がなされなければならないのである。これは啓示経験である。然しながらここでの啓示は一般的に考えられうるものとは違う。啓示とは、究極的な関 わりが精神を動かし、それによって共同体が生み出され、その共同体において人間の究極的な関わりが行動的、象徴的、思恣的象徴となって、表現を遂げること の経験である。このような経験において理性と信仰の衝突はあり得ない。なぜなら、この啓示によって変化させられるのは、合理的存在としての人間構造である からである。信仰史は間違った信仰体系や啓示による理性の堕落や湾曲とそれ に伴う衝突から生じる啓示の要求の歴史であり、つまり信仰史は信仰の腐敗の歴史なのである。このような闘争、ひいては信仰と理性の衝突を終わらすには、 終極的な啓示は必要となるのである。
[信仰の真理と科学的真理]

信仰の真理は認識理性の諸関係が真理とするものと異なっている。これは実存を履き違えたり、表現を誤ったりする為に発生する誤諺であるが、実際としてこ れらの誤りを判別することはその性質が相互依存的である為に難解である。い ずれにせよ信仰の真理と他の標準による真理の関係を問う必要がある。
まず最初に自然科学の真理性は暫定的なものである。然しながらそれを良いことに神学者はこれらの真理性の脆弱性を指摘してはならない。なぜなら、神学 における真理と科学における真理は異なる次元にあるものであるからである。 それゆえ本来ならばいかなる衝突が発生するはずがないのであるが、どちらかがどちらかに介入したり、基準を押し付けたりする為に問題が発生するのであ る。また、間違った表現形式を持つ科学はそれ自体が盲目的な信仰であり、先述 された無神論者の例に然るのである。一方でこれは科学的観点の神学への 押し付け(進化論問題)のような形式だけでなく神学観点の科学への押し付けも 問題となっている。神学者は科学的発見を利用して、信仰の真理を証明しようと してはならないのである。これは先述したように双方の真理の次元が違うため に、一方の基準を押し付けてはならないからである。

出典

1961年 信仰の本質と動態 ティリッヒ著谷口美智雄訳 新教出版

伏見稲荷、東福寺、感想

 美しく朱色に染められた鳥居が途切れることなく、一定の秩序をもって、山の 傾斜に立ち並ぶさまは圧巻であった。鳥居の列をくぐり、山頂へと進む過程の中で必ず目にするであろう、鬱蒼と生い茂る木々に、私は畏怖の念を抱いたのである。しかし、これが単に、伏見稲荷という場所が宗教的領域であるためではない。 整然と並ぶ鳥居の作り出す空間がこのような感情を沸き起こさせたのである。山を這うように立ち並ぶ鳥居の列が作り出す空間が、木々の生い茂る外界と 我々のいる内界との境界線を露わにし、神の住む世界と人間の世界をはっきり と分けることで、自然の中にいる神を再認識し、このような感情が沸き起こった のである。つまり鳥居という窓を通すことで神の世界が見えたのである。言って しまえば、この構図は動物園や水族館などでもよく見られる。普段、我々と違う 世界に住んでいる動物を、檻の中に閉じ込めることで、人間世界の領域の中でそ の存在を再確認し、檻の隙間から安心して外界を認識するとこができるのであ る。つまり私にとって伏見稲荷とは、我々の身の回りにいる神を再認識すること のできる「神の動物園」なのである。
さて東福寺であるが、私に審美眼がないためか、教養が乏しいためか、美しさ を感じるとことができなかった。しかし、これで良いのである。「わびさび」と いう言葉もあるように、あのような建造物は、表面的な美しさを求めて作られていないばかりかむしろ、簡素に作ることで建造物の持つ内面的な美しさをつかみ取れるようにはなから作られているのだから。東福寺臨済宗もまたそうである。臨済宗も禅を通じて自己との対話の中で真理に近づいてゆこうとするものである。表面的なものに囚われず、内に隠された美を探求してゆく為には、華美な装飾は排除されなければならないのだ。そう考えると、あれはあれでいいも のである。

美への執着

中世ヒューマニズムの標語にこんな言葉がある。

「愛が無常の価値を持ち、美を追求するすることで人間は自由になる」

この考え方はヒューマニズムの下書きとなったギリシャ哲学の考え方から発されている。あえてギリシャ哲学、ソクラテスプラトンについて特筆する必要性はなく、特にプラトンの「饗宴」のロジックは広く知られているのでこれは尚更である。さて、そのロジックは下記のものである。

 「神が美しいさを求めるのは、神が美しくないという事実を間接的に証明しているにすぎない。全ての性質に普遍なことであるが、欠乏しているからこそ、それを求めるのである」

たしかに、一見すればこの思考方は正しいように見える。その上、この証明方法は現代にいたるまでさまざまな場面で多用されている。しかしながら、はっきり言ってこれはまったくの誤りである。

 

…まず一つの前提条件として「われわれ人間は神の被造物である」ということがある。そして「神はわれわれ人間を自らに模して創造した」のである。子が親のなんらかの特徴を共有している事実があるように、われわれ人間には神へ近づくための、あるいは神へと通ずるなんらかの道があるのである。

そして、ここで重要な点は、すべての動物や生き物の中で唯一、人間のみが美を追求することが出来るということである。紀元前に描かれたスペインの洞窟画などは、古来より人間が、美を感じていたといことの表れとも理解される。

では、なぜ人間が美を追求するのか、美を感じることができるのか?

ーーそれは神が美しい存在であるからである。われわれが美を追求する理由は、美しい存在である神に近づこうとする潜在的な意識のあらわれからである。「人間が普遍的な美を追求するということは、神の被造物である人間が神に近づこうする意識の発露であり、つまりは神が美しいという事実の証明に他ならない」この理論でいえば、なぜ、文化や芸術が未発達の古来から、成熟した現代まで人々は神を描き続け、美を追求したのかということは容易に理解されうる。

では、美しくないとされている存在は神から遠い存在となるのか?

違う。ーー美しい神がそれを創造した以上、万物は全て美しいのである。われわれが美をを追求するのは神に''より''近づこうとするためであり、みな等しく美しい存在である神のエッセンスを受け継いでいるのである。美をもたぬものも、美をもつもの、その全ては美しいのである!!

1020文字

(これはまったくの個人の考えであり、引用先は記憶を頼りに綴っているので誤りはご了承願いたい)