美への執着

中世ヒューマニズムの標語にこんな言葉がある。

「愛が無常の価値を持ち、美を追求するすることで人間は自由になる」

この考え方はヒューマニズムの下書きとなったギリシャ哲学の考え方から発されている。あえてギリシャ哲学、ソクラテスプラトンについて特筆する必要性はなく、特にプラトンの「饗宴」のロジックは広く知られているのでこれは尚更である。さて、そのロジックは下記のものである。

 「神が美しいさを求めるのは、神が美しくないという事実を間接的に証明しているにすぎない。全ての性質に普遍なことであるが、欠乏しているからこそ、それを求めるのである」

たしかに、一見すればこの思考方は正しいように見える。その上、この証明方法は現代にいたるまでさまざまな場面で多用されている。しかしながら、はっきり言ってこれはまったくの誤りである。

 

…まず一つの前提条件として「われわれ人間は神の被造物である」ということがある。そして「神はわれわれ人間を自らに模して創造した」のである。子が親のなんらかの特徴を共有している事実があるように、われわれ人間には神へ近づくための、あるいは神へと通ずるなんらかの道があるのである。

そして、ここで重要な点は、すべての動物や生き物の中で唯一、人間のみが美を追求することが出来るということである。紀元前に描かれたスペインの洞窟画などは、古来より人間が、美を感じていたといことの表れとも理解される。

では、なぜ人間が美を追求するのか、美を感じることができるのか?

ーーそれは神が美しい存在であるからである。われわれが美を追求する理由は、美しい存在である神に近づこうとする潜在的な意識のあらわれからである。「人間が普遍的な美を追求するということは、神の被造物である人間が神に近づこうする意識の発露であり、つまりは神が美しいという事実の証明に他ならない」この理論でいえば、なぜ、文化や芸術が未発達の古来から、成熟した現代まで人々は神を描き続け、美を追求したのかということは容易に理解されうる。

では、美しくないとされている存在は神から遠い存在となるのか?

違う。ーー美しい神がそれを創造した以上、万物は全て美しいのである。われわれが美をを追求するのは神に''より''近づこうとするためであり、みな等しく美しい存在である神のエッセンスを受け継いでいるのである。美をもたぬものも、美をもつもの、その全ては美しいのである!!

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(これはまったくの個人の考えであり、引用先は記憶を頼りに綴っているので誤りはご了承願いたい)