伏見稲荷、東福寺、感想

 美しく朱色に染められた鳥居が途切れることなく、一定の秩序をもって、山の 傾斜に立ち並ぶさまは圧巻であった。鳥居の列をくぐり、山頂へと進む過程の中で必ず目にするであろう、鬱蒼と生い茂る木々に、私は畏怖の念を抱いたのである。しかし、これが単に、伏見稲荷という場所が宗教的領域であるためではない。 整然と並ぶ鳥居の作り出す空間がこのような感情を沸き起こさせたのである。山を這うように立ち並ぶ鳥居の列が作り出す空間が、木々の生い茂る外界と 我々のいる内界との境界線を露わにし、神の住む世界と人間の世界をはっきり と分けることで、自然の中にいる神を再認識し、このような感情が沸き起こった のである。つまり鳥居という窓を通すことで神の世界が見えたのである。言って しまえば、この構図は動物園や水族館などでもよく見られる。普段、我々と違う 世界に住んでいる動物を、檻の中に閉じ込めることで、人間世界の領域の中でそ の存在を再確認し、檻の隙間から安心して外界を認識するとこができるのであ る。つまり私にとって伏見稲荷とは、我々の身の回りにいる神を再認識すること のできる「神の動物園」なのである。
さて東福寺であるが、私に審美眼がないためか、教養が乏しいためか、美しさ を感じるとことができなかった。しかし、これで良いのである。「わびさび」と いう言葉もあるように、あのような建造物は、表面的な美しさを求めて作られていないばかりかむしろ、簡素に作ることで建造物の持つ内面的な美しさをつかみ取れるようにはなから作られているのだから。東福寺臨済宗もまたそうである。臨済宗も禅を通じて自己との対話の中で真理に近づいてゆこうとするものである。表面的なものに囚われず、内に隠された美を探求してゆく為には、華美な装飾は排除されなければならないのだ。そう考えると、あれはあれでいいも のである。